【歴史】

信長・秀吉・家康が「執着」した大坂城

大坂城ほど天下人たちのエピソードが豊富な城もないでつ。

織田信長が構想し、豊臣秀吉が築城し、徳川家康が入城。

その家康が落城させ、秀忠(2代将軍)が再建し、慶喜(15代将軍)が焼失させたでつ。

「30の名城からよむ日本史」は「大坂城を舞台に繰り広げられた人間ドラマが、そのまま歴史上の重要な出来事となってきた」と指摘してるでつ。

最初に着目した覇者が、織田信長だった。戦国時代の大坂は大小の河川が流れる要害の土地。

さらに船便が発達しており、西へは瀬戸内海から外洋に出られ、東国からは物産が集積していたでつ。

「大坂城全史」は「信長は地政学的な観点から大坂という土地を高く評価した」と語ってるでつ。

信長は、まず大坂に本拠を置く浄土真宗本願寺に資金提供を要求し、さらに退去を迫ったでつ。

軍資金の要求には逆らうことなく従った本願寺顕如も、転封命令には激怒。

顕如は全国の信徒に信長打倒を呼びかけ、戦国大名らの反信長包囲網の中心として激しい攻防を繰り広げたでつ。

一時的に両者は和睦するがすぐに決裂し、最終的に本願寺が退去したのは1580年。

本格的な巨城を築く時間は信長にもうなかったでつ。

2年後に「本能寺の変」が起こったから。

信長の大坂城構想は、織田軍団のトップ層に情報共有されていたでつ。

明智光秀を討った秀吉は、早くから「大坂は信長の後継者である天下人が入るべき」としていたでつ。

「秀吉は大坂築城に、安土城のケースをそっくりまねた」と分析。

信長は1575年に、嫡子の信忠に居城の岐阜城を譲ってから安土城建設に着手。

秀吉も賎ケ岳の戦いで柴田勝家を倒した後、本拠地の姫路城を実弟・秀長に譲ってから83年に大坂築城を開始。

「信長の後継者であることを強く意識する秀吉が、新たな中央政権の樹立を狙う地位に立ったことを宣伝するために、信長と同様の演出をもくろんだ」としているでつ。

同時代の武将らには最も効果的だったでつ。

本丸に入城したのは翌84年(天正12年)。

優れた画家や建築家が最後の最後まで自作に手を入れるのと同じように、秀吉は最晩年に至るまで大坂城を手直しし、強化し続けたでつ。

家康も大坂城にこだわった一人。

1599年(慶長4年)には、政務をとっていた伏見城から大坂城に強引に入ったでつ。

しかも本丸天守閣の秀頼に対抗するかのように、自分が居住する西の丸にも天守閣を設けたでつ。

「家康様が天下様になった」と世間で噂になったでつ。

この西の丸天守閣建設は、関ケ原の戦いの際に石田三成らが糾弾する家康の罪状のひとつに挙げられたでつ。

「後に秀頼の大坂城を攻略するのに、家康は周到な準備を重ねた」と解説。

まず畿内の篠山城、亀山城、姫路城を大改修し、さらに名古屋城を新たに築城して徹底的な「大坂城包囲網」を完成。

それでも「大坂冬の陣」(1614年)では落城させられず、和睦で総堀を埋め立ててからの「大坂夏の陣」(15年)が必要だったでつ。

大坂を直轄領にした2代将軍・徳川秀忠は大坂城の修復を企て、堀の深さと石垣の高さを2倍にするよう命じたでつ。

秀吉のイメージを覆い隠したい意図から天守閣も巨大化した」でつ。

大改造した大坂城には城主は置かず、交代制の城代という形で有力譜代大名に当たらせたでつ。

徳川幕府がいかに大坂城を重視かつ警戒していたかが、うかがわせるでつ。

3代将軍・家光の弟である忠長は大坂城か所領百万石を希望。

同時代の一次史料では確認できないでつが、もし本当ならば幕府にとって最も危険な言辞だったでつ。

後に忠長は、徳川一族の中では異例の切腹を余儀なくされたでつ。

大坂城を舞台に歴史を作りあげたのは権力者ばかりではなかったでつ。

今日から約170年前の1837年(天保8年)2月19日に城下で起きた「大塩平八郎の乱」。

大坂東町奉行所の与力の家に生まれた大塩は、「知行合一」をモットーとする陽明学者でもあり、自宅で「洗心洞」という私塾を開いていたでつ。

「知識は行動を伴ってこそ完成するとして、秩序よりも行動を重視していた」でつ。

「大坂の陣以来の市街戦は小競り合い程度だったが幕府や社会に与えた衝撃は大きかった」でつ。

大塩の乱は支配者側の与力や同心が体制を批判して蜂起したものだからでつ。

武士と農民が手を組んで立ち上がったことも幕府には驚きだったでつ。

「大坂の陣は幕府の礎を固める戦いだったでつが、大塩の乱は幕府の土台を揺るがした」でつ。

31年後の「鳥羽・伏見の戦い」に敗れた徳川慶喜は単独で脱出し、幕府軍の本営だった大坂城は取り残された形になったでつ。

大坂城は、天下の城でつなぁ〜

北条氏康の家臣団を読んで思ったです。

関東地方一円の広い範囲を支配下とし、戦国時代最大の巨城 「小田原城」 に居を構えていたのがこの「北条家」。

北条家は戦国時代の歴史の流れにおいて、それほど大きな出来事には関わっていなかったため、ややマイナーな感があるけど…

広い領土を持ち、上杉家 や 武田家 などの強豪大名に何度も進攻されながらもそれを追い返した、戦国時代有数の大名であることは間違いです。

戦国大名としての北条家の始まりは、「戦国時代の先駆者」と言われる「北条早雲」から始まります。

彼は最初、今川家の家臣としてその地位を高め、領土を得ると、伊豆半島に進攻を開始してそこを支配下に収めるです。

さらに小田原(現在の神奈川県)に進攻して制圧、拠点とし、さらに周辺に勢力を広げていったです。

早雲の後、さらにその後を継いだ「北条氏綱」が関東に進出、そしてその子「北条氏康」も、後を継ぐと関東一帯を支配下とするために勢力拡大したです。

北条氏康 は 「武田信玄」 や 「上杉謙信」 に比べるとやや政治向きな人で、「武闘派」と言うイメージはあまりない感じ。

だけど、実際には生涯三十六度の合戦で一度も敵に背を見せず、受けた傷は全て向こう傷だったと言われている勇敢な武人。

1545 年には、「関東管領」という関東地方を治める役職を持っていた「山内上杉家(上杉謙信の上杉家とは別)」が、近隣の同盟国や今川家と共に8万の大軍で 北条家 に進攻して来またですが、北条氏康 は8千の精鋭を率いて夜襲をかけ、この 10 倍の敵軍を撃退したです。

この戦いは「川越の戦い」と呼ばれ、北条家の武名を大きく上げる戦いになったです。

同時にこの戦いによって、北条家は関東一帯の支配を確立したです。

その一方で氏康は政治家としても非常に優秀であり、他の大名家に先駆けて「検地(土地を調べて税金などを決める事)」を実施し、通貨を統一し、経済改革に努めたです。

北条家には 「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」 という家訓が代々伝わっており、北条氏康 の統治は、まさにそれを表したものであったと言えるです。

特に北条家の行政機構は非常に近代的であり、他の大名家よりも進んでいた事で有名。

その後、北条家 は 今川家・武田家 と「三国同盟」を締結。

しかしこの後、北条家は領土を守るため防戦一方の展開となって行くです。

1561年、越後の「上杉謙信」が関東管領職を譲られ、役職通りに関東を支配するため、北条家に毎年の様に進攻してきたです。

加えて、長年敵対していた房総半島の「里見家」との戦いも続き、三国同盟が解消されると、武田家 も進攻してくるようになったです。

かつて撃退した 「山内上杉家」 なども小勢力ながら北条家への敵対行為を続けており、まさに四方から外敵の進攻を受けるような状態になったです。

そんな中、北条氏康 は小田原の城の改築を繰り返し、それを難攻不落の巨城へと変えて行くです。

小田原城の改修は以前から行われ続けていたですが、戦いが激しくなるにつれてその必要性も増していき、こうして天下の巨城 「小田原城」が誕生したです。

以後、上杉家の攻撃を受け流しつつ、里見家との抗争を続けたです。

その後は、氏政、さらに 氏直 が後を継いだです。

北条家 は 上杉家 などから度重なる進攻を受け続けたですが、巨城 小田原城での篭城戦で、それらの進攻を防いだです。

こうして、以後も 20 年近く 北条家 は外敵からの侵入を阻み、関東を支配し続けたですが・・・

その間に天下は動き続け、日本はほぼ「豊臣秀吉」に支配される事となったです。

この北条家を支配下に置かないと天下統一がならなかったことを考えると北条家の存在は大きいです。

だけど、北条氏康がまだ一度もNHKの大河ドラマ主役をやってないのは、すごく不思議だなぁ~

でも、そろそろやりそうな雰囲気ありそうだなぁ~

江戸プロジェクト

江戸は1590年に徳川家康が入城して以来整備が進み、徳川家の本拠地として栄えてきたでつ。

そして、1603年家康の征夷大将軍就任と共に幕府が開かれたでつ。

だけど、元々三河出身の家康が自身の出身地でも、当時の政治の中心の京都方面ではなく江戸に幕府が開いたのはなぜか。

その理由を地形的、政治的な条件から考察するでつ。

家康のプロジェクトでつなぁ~

まずは江戸の土地条件が関係していると言われているでつ。

これには3つの条件があるでつ。

1つ目は江戸の持つ地形の条件。

大きな都市が出来るにはいくつかの条件があるでつ、その一つとして、広大な平地を持ち、海、大きな川に面しているということが重要であると言われているでつ。

広大な平地の関東平野や東京湾に接し、そして日本の河川の中でも最大規模の利根川から水を引くことが出来た江戸は、まさにその成立条件を満たしているでつ。

2つ目に物流の発達を整えやすかったという点。

都市を発展させる為には物流が欠かせないでつ。

物が動けばお金も動き、人もどんどん集まって都市は大きくなっていくでつ。

当時の物流は馬による陸路と川による水路が重要で、特に船や水路の発展は当時の物流を大きく変えたでつ。

先ほど挙げた利根川の水を上手く利用する事で家康は江戸の物流を整える事を計画したでつ。

この計画は都市作りにも影響を与え、江戸は水路を軸として街が作られ、物流の発達と共に都市はどんどん大きくなっていったでつ。

最後に江戸がまだ発展の余地を十分に残した土地であった事があげらるでつ。

江戸が今までに言われているような荒れ果てた寒村ではなく、中世、もしくはそれ以前から一大都市であった事は近年明らかになってきたでつが、それでも江戸はまだまだ発展の余地を残した土地だったでつ。

それまでに関東に拠点を置いた鎌倉幕府や北条氏は、利根川近辺の勢力との兼ね合いから鎌倉方面に拠点を置いていたでつ。

江戸が拠点になったのは、そういった勢力を一掃して徳川家康が江戸城に入ってからでつ。

家康はそんな江戸の発展性に目をつけたでつ。

豊臣秀吉も同じように低湿地帯であった大阪を開拓し、一大都市として整備しているでつ。

同じように都市を築くのであればということで、同じ湿地帯という条件を持った江戸が新たな時代の中心として選ばれたでつ。

次に政治的な理由でつなぁ~

実は江戸幕府が開かれた1603年当時の徳川家は京都、特に二条城、伏見城を政治の中心にしてたでつ。

だけど、徳川家の京都の本拠であった伏見城が関ヶ原の戦いの前哨戦において、1600年に伏見城の復興も二条城の本拠化と共に中途半端になってしまったこと、

大坂にはまだ力を持った豊臣家があってそこから離れたかったこと、本拠の江戸から京都への距離があまりに離れすぎていること等の理由から、江戸に幕府を置くことにしたでつ。

こちらはどちらかと言うと消極的で、仕方なく江戸を選んだのだといった印象。

寒村の江戸を発展させたという家康の業績を持ち上げてみせるのも、政治的な理由が消極的な物だったからかもしれないでつ。

地形的、政治的、両方の面から選ばれた江戸という都市。

268年もの間幕府の拠点として栄えた江戸は東京と名前を変えた今でもなお発展を続けているでつ。

その将来性を見出した家康の目は確かな物だったでつなぁ~

土佐三志士像

大河ドラマ 西郷どんも明治維新へと進んできたですなぁ~

その革命を起こしたのが、土佐三志士!

この間は夜だったけど、昼見るとやっぱり凄さが伝わるですなぁ~

「関ケ原」の研究②

怜悧(れいり)なインテリ官僚という石田三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えていた」――。

「果断にことを進める剛胆な」等身大の石田三成像を描き出したです。

三成が出世階段を上るきっかけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていないです。

その後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなもの。

「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえるです。

最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていたけど、約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていたです。

家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領になったことに気付かなかったみたい。

その三成の、3つの戦略ミスはなんだったのか…

家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きいと指摘。

それが兵力の分散を招いた。

三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみるです。

西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていったです。

毛利軍は四国、中国地方へも出兵。

その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になったです。

その戦略ミスが現実化したのが岐阜城の戦いとみるです。

岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていたです。

岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが…

岐阜城も約半日で…

岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていたです。

もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残るです。

それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったです。

実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもったです。

同城は9月15日に開城するですが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。

攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかったです。

情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていたです。

家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断。

三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼。

その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたです。

岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがあるです。

一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたです。

東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いたです。

その状況を積極的に活用したのは家康。

大阪城にも徳川シンパは残っていたというです。

本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野。

三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じたとみるです。

油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしているです。

秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていたところを家康はその隙をついたです。

豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかったです。

さらに家康は、シンパを形成するための多数派工作を行っていたです。

黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かったと指摘。

「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかったです。

大阪城の西軍首脳と三成の戦略にブレがあるのが致命的弱点。

最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点。

西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊--と多い。

三成が指導する方針で皆が一致したわけではなかったです。

これまでは三成が「反徳川」のリーダーとして毛利や宇喜多らを誘い込んで関ケ原の戦いに臨んだと説明されてきたです。

三成は西軍首脳の1人ではあっても首謀者ではない。

単独で反徳川闘争を始動し、後から大々名へ協力を呼びかけるような無謀な人物ではなく、むしろ毛利、宇喜多ら大老グループが積極的だったため連携に踏み切ったです。

毛利輝元は1年半前に「7武将襲撃事件」でも三成側での軍事行動を考えていた。

西軍は共同謀議で決起したが、豊臣家を守るという三成の思惑と毛利家を拡大したいという輝元の思惑が異なる同床異夢状態が西軍の弱点。

その毛利輝元が、家康との不戦協定へスタンスを変えていくです

(1)上杉征討軍のほとんどがそのまま家康に従ったこと

(2)岐阜城が簡単に開城したこと

(3)大津城・京極氏の離反――

といった西軍の予想外の不利な状況が続いていたからです

さらに「輝元自身、当初から短期間での決着を望んでいなかった」です

政治的混乱が長引き、その間に四国・九州など西国の掌握を輝元が企図していたため。

従来は毛利一族の有力武将であった吉川広家が、独断で黒田長政ら東軍と交渉したとされてきたですが、最新の研究では輝元自身の指示で吉川広家が動いたとされるです

輝元が信頼する側近で、戦後には西軍首脳の1人として処刑される安国寺恵瓊も、そうした自軍の動きを黙認していたです

結局毛利軍の不戦と小早川秀秋の裏切りが関ケ原合戦の東軍勝利を決めたのは周知の通り。

だけど戦後処理は輝元の期待と裏腹に領国を約3分の1に減封されるという結果に終わったです。

家康と三成の政治指向には共通点も少なくないです

家康政治の特徴として「法の支配」を挙げるです

家康は「武家諸法度」「宮中並公家諸法度」など多方面で法の整備を推進。

一方、太閤検地の具体的な推進者だった三成の目指したものも税収の全国共通ルールの徹底。

江戸時代に老中らには譜代大名が就任し、前田・伊達といった大々名に参画させなかった制度の原型を豊臣政権末期の「5大名・5奉行制」にみるです

基本的には権威と権力の分離で、豊臣時代の大老にも具体的な政治的権力はなかったです

また家康の生涯の趣味として「鷹(たか)狩り」が知られているですが、三成にも自分の鷹のすばらしさを喜々として語る書状が残っているです

関ケ原前夜には一時的に徳川家と石田家が友好的な関係にあったことを指摘。

家康が京都・伏見城から大阪城に移る際に安全のため実兄の城内屋敷を提供。

家康も三成の嫡子の大阪城勤務を認めているです

終始反家康の立場を貫き常に挙兵の機会を狙っていた、時勢の読めない人物ではなかったです

家康と三成は最初から仲が悪かったわけでもない。

家康60歳、三成39歳、秀頼6歳。三成には家康と妥協して時間を味方に付ける選択はなかったのかなぁ~

三成が秀吉家臣団中で頭角を現していったのは、ちょうど秀吉が織田家の権力を奪取していく時期だったです

秀吉は本能寺の変後、信長の嫡孫・秀信を立てつつ子息の信孝、信雄を攻めていったです

その経緯を間近で見ていたのが側近の三成。

三成氏は秀吉が三成の外交担当に上杉、佐竹、真田といった「家康包囲網」の諸大名をあて、一貫して家康に対抗する立場に置いていたと指摘。

秀吉が生きている間は対立することはなかったです

三成の心中には家康を潜在的な敵と見なす秀吉の底意が刻み込まれていったのではないかと推定。

「関ケ原」の研究①

日本で一番知られている合戦は、天下分け目の戦いとされた「関ケ原合戦」。

戦後は全国の3分の1を超える約630万石が勝った東軍に分け与えられたでつ。

徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍が関ケ原(岐阜県関ケ原町)で戦い、勝利した家康は約260年続く江戸幕府を開いたでつ。

両軍合わせて約16万人が激突したこの一戦は、天下取りを狙う家康が反対勢力を誘引して引き起こし、ほぼもくろみ通りに一気に決着を付けたとの評価が一般的。

だけど最新の研究では、家康が望んだような展開とはかけ離れた不本意な戦いであったことが指摘。

「関ケ原」における家康の計算と誤算を検証するでつ。

「関ケ原合戦のような大会戦を家康は望んでいなかっただろう」――。

「家康は既に実権を握っており、より安全に政権を奪取する道があったはずだ」と分析。

それまでの権力闘争に圧勝し政略が順調に進んでいたから。

家康は1598年8月から多数派工作を始めたといわれているでつ。

伊達、福島ら地方有力大名との婚姻政策だ。秀吉が生前に決めた「五大老」(家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)と「五奉行」(三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政)による集団指導体制は早い時期から形骸化。

三成ら奉行4人(浅野を除く)と大老の毛利が「起請文(きしょうもん)」を作成して同盟した点を指摘。

「仮想敵」はもちろん、大老筆頭の家康。

 

99年閏(うるう)3月の「石田三成襲撃事件」を家康派らによる「事実上のクーデター」と位置づけ。

三成は加藤清正、福島正則ら7将に狙われただけではないでつ。

拠点としていた大阪城も片桐且元ら「隠れ家康派」に占拠され三成派は入城できなくなっていたでつ。

これまでは家康が公正な第三者として対立を調停したとされてきたでつが、実は清正ら7将は家康の統制下にあったでつ。

家康と三成派の毛利、上杉らとの間で和睦がまとまり、三成は引退を余儀なくされたでつ。

さらに名目上の最高権力者である豊臣秀頼の大阪城に乗り込み、幼君をたてる形で事実上の独裁権を握ったでつ。

家康が「天下様になった」と世間で噂されたでつ

家康派大名が7日間で合計13万石加増されたこともあったでつ

大名への加増は、本来秀頼にしか許されない最高レベルの権限。

「泣くまで待とうホトトギス」の句が表すように、家康には「忍耐」「熟柿(じゅくし)作戦が得意」とのイメージが強い。

しかし当時58歳の家康は素早く動き権力闘争に勝利。

一方で「政敵を1度に1人ずつ失脚させる方法を貫いた」手堅い個別撃破の戦略にも注目。

三成を隠居させてから毛利輝元が支援しているのを承知で「(家康と輝元は)今後は兄弟の間柄」と友好関係を結んだでつ。

前田家と上杉景勝との連携説があった時も、利長に標的を絞り上杉は不問。

その上杉打倒は00年6月まで待って開始。

「会津征伐」で徳川軍に豊臣家諸大名を加えた正規軍で、遠征の準備を担当したのは増田、長束、前田の3奉行。

家康が畿内を離れれば屈服していた反対派が蜂起するだろうという予想は当時幅広く共有されてて。当初は加藤清正だと思われていたでつ。

 

家康も当然、反対派挙兵の可能性は折り込み済み。

しかし「大規模にはならないと楽観していた」とみるでつ。

実際、最初は三成と大谷吉継が蜂起(7月12日)した程度と伝わっていたでつ

第1の誤算は毛利輝元の参戦。

輝元には優柔不断な性格のため周囲にすすめられるまま西軍総大将に担ぎ上げられたとの印象が強い。

だけど「輝元自身が積極的だった」と指摘。

中国地方に帰国していた輝元がただちに畿内に戻った早さから「事前に三成らと相談・準備していた可能性が強い」。

7月17日に大阪城へ入り、四国・中国地方へも出兵。

宇喜多秀家も積極的に参加した。直前に家中の内紛があったことから自分の方針に賛成しそうもない家臣はあらかじめ外しておくという周到さ。

事前の謀議に加わっていた可能性は高い。

「上杉が健在なうちに家康に対抗しないと、次は自分たちがやられる番という認識が西軍首脳には共有されていた」でつ。

「増田長盛ら3奉行が三成側に付いたのが大誤算だった」としているでつ

家康が独裁権を握っていた約1年間、3奉行は家康に忠実に従って全国行政を処理。

三成挙兵直後は、3奉行も淀殿も家康寄りで「不穏な情勢を鎮圧してほしい」との書状を遠征先に送っているでつ

しかし三成らが説得し、毛利参戦なども確認するに至って西軍有利と判断。

3奉行は家康に対する弾劾状を全国に発送、家康は公的権力者としての立場を剥奪され、一転「叛徒(はんと)」の立場になったでつ。

各個撃破どころではない。2大老・4奉行(三成復帰を含む)を同時に敵としたわけ。

家康は8月5日に江戸城へ戻り、嫡子・秀忠の徳川主力軍3万8千を中山道経由で先発させるものの自身は約1カ月滞在し情勢を見守ったでつ

「福島正則ら義務的従軍で付き従ってきた武将がどう出るか分からなかったからだろう」とみるでつ

清洲城(愛知県清須市)まで進んだ福島ら豊臣系武将に積極的に西軍との開戦を促す使者を送ったのは「東軍からたもとを分かつ者をあぶり出す家康一流の作戦」はずだったが、ここから徳川軍団の誤算の連鎖が始まったでつ

挑発的な督戦の言葉に激高した福島、池田輝政ら東軍の武将は、勢いにまかせて堅城で知られる岐阜城を半日で陥落させてしまうでつ

さらに三成ら西軍首脳が集まる大垣城まで、目と鼻の先の距離まで進撃。

督促の効き目があり過ぎ、このままでは家康も秀忠も参加しないうちに東西決戦が決着してしまう恐れが生じてきたわけ。

そうなれば「家康は戦後における立ち位置を失い、政治的発言権はなくなる」。

 

家康にとっては予想を上回る早い展開であったため、慌てて強行軍で東海道を進んだでつ

むろん前線の諸将には不用意に戦端を開かないように自制を促す書状も送ったでつ

9月1日に江戸を出発した徳川軍は約3万3千の大軍。

ただ1万石以上の大名クラスは秀忠軍に加わっていたため家康を守る防衛的な性格が強い旗本中心だったでつ

最前線に到着したのは14日で「家康抜きの関ケ原」という最悪の事態は回避できたでつ

ただ今度は秀忠軍が間に合わなかったでつ

当時の命令伝達速度の問題から、家康が早期決戦に切り替えたことなど知るわけもなく、秀忠は従来方針通り上田城を攻めて苦戦などしていたでつ

結局関ケ原の戦いは、実態が豊臣系大名同士が東西両軍に分かれての戦闘になったでつ

戦後処理で西軍から没収した約630万石のうち、約8割の580万石が東軍の豊臣系武将に配分されたでつ

開戦当初に「徳川四天王」の井伊直政が抜け駆けしたというエピソードは、戦場で存在感が希薄な徳川軍のアピールを狙ったのかもしれないでつ

一方で「関ケ原合戦の布陣については諸説入り乱れた状態で、小早川秀秋が松尾山にいたこと以外ほとんど分かっていないのが現状」との指摘もあるでつ。「古戦場の発掘調査で鉄砲の弾が1つも出てこなかったなどが背景にある」でつ

小早川の裏切りを促すため家康が鉄砲を撃ちかけたとの有名なエピソードも、実は後世の創作ではないかという説が出され、支持する研究者も少なくないでつ。しかし「華々しい一斉射撃ではなく、誤射を装った警告の鉄砲射撃だった」と唱えるでつ

家康は細心の注意を払いながら参戦を促していたという見立て。

誤算続きであったにもかかわらず、最終的に家康が勝利できた要因はどこにあったのか。

1つは家康が中央政局の動きに集中し、政権奪取の目標が終始ぶれなかったことにあるでつ

毛利輝元は四国・中国への侵攻を図り、上杉景勝は江戸の徳川軍ではなく山形地方へ進出したりしていたでつ

輝元は養子への領土割譲、景勝は自領の未整備という内部の問題があり、領土拡大が大きな関心事だったよう。

「毛利も上杉も政権中枢の問題のみに集中できなかったのに対して、家康は権力奪取に集中できたことは大きい」。

政権問題のみに注力していたのは、家康を除けば、あるいは三成だけだったかもしれないでつ

三成は関ケ原の戦備のために蓄えを使い切ったでつ

九州で活躍した黒田如水も含め、みな戦国時代の再来まではいかないとしても、相当な長期戦を予想していたでつ

江戸進発後の家康だけが短期決戦を指向していたでつ

さらに「関東250万石の経営が順調で省みる必要がなかったことが大きい」と指摘する。

領国経営のため帰国する有力大名が相次いだでつ

家康だけが京都・大阪に滞在し続けた。宇喜多秀家は家中を二分する「宇喜多騒動」を引き起こし、島津義久、義弘は重臣の「庄内の乱」の解決に追われていたでつ

関ケ原の10年前になる家康の関東転封は畿内からより遠ざけたい秀吉の計算が働いたともいわれるでつ

家康自身も本拠地の東海・中部地方から離れるのは当初本意ではなかったかもしれないでつ

しかし「家康は関東へ移ったことをプラスに作用させた」でつ

「従来の土地とのつながりがリセットされたことで家臣団の再編成が可能。

井伊直政や本多忠勝、榊原康政が多くの領地を与えられ、全国レベルで頭角を表し始めたのはこのタイミングだった」。

不本意な異動をプラスに変え、結果的に中枢での存在感を大きくしていくことができたでつ。

日本の城

最近ブームと言うか城に関する本とか番組が多いですなぁ~

そういえば最近、城廻してないなぁ~

出張した時に城のある街に行きたいですなぁ~

大坂の陣

謎も多いけど陣配置図が見つかったです。

これでまた新たな発見があるかも。

推定が確定に代わるとまた歴史もおもしろくなるです。

太陽の塔

大阪万博もだけど、高度成長時代のシンボルですなぁ~

世界遺産にしたいです。

ここでいろんな夢を描いた時代だったのかなぁ~

皇位継承

来年行われるでつなぁ~

だけど古い風習も残ってるでつなぁ~

さて年号は何になるのかなぁ~