【歴史】

土佐三志士像

大河ドラマ 西郷どんも明治維新へと進んできたですなぁ~

その革命を起こしたのが、土佐三志士!

この間は夜だったけど、昼見るとやっぱり凄さが伝わるですなぁ~

「関ケ原」の研究②

怜悧(れいり)なインテリ官僚という石田三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えていた」――。

「果断にことを進める剛胆な」等身大の石田三成像を描き出したです。

三成が出世階段を上るきっかけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていないです。

その後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなもの。

「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえるです。

最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていたけど、約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていたです。

家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領になったことに気付かなかったみたい。

その三成の、3つの戦略ミスはなんだったのか…

家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きいと指摘。

それが兵力の分散を招いた。

三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみるです。

西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていったです。

毛利軍は四国、中国地方へも出兵。

その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になったです。

その戦略ミスが現実化したのが岐阜城の戦いとみるです。

岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていたです。

岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが…

岐阜城も約半日で…

岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていたです。

もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残るです。

それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったです。

実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもったです。

同城は9月15日に開城するですが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。

攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかったです。

情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていたです。

家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断。

三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼。

その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたです。

岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがあるです。

一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたです。

東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いたです。

その状況を積極的に活用したのは家康。

大阪城にも徳川シンパは残っていたというです。

本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野。

三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じたとみるです。

油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしているです。

秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていたところを家康はその隙をついたです。

豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかったです。

さらに家康は、シンパを形成するための多数派工作を行っていたです。

黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かったと指摘。

「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかったです。

大阪城の西軍首脳と三成の戦略にブレがあるのが致命的弱点。

最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点。

西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊--と多い。

三成が指導する方針で皆が一致したわけではなかったです。

これまでは三成が「反徳川」のリーダーとして毛利や宇喜多らを誘い込んで関ケ原の戦いに臨んだと説明されてきたです。

三成は西軍首脳の1人ではあっても首謀者ではない。

単独で反徳川闘争を始動し、後から大々名へ協力を呼びかけるような無謀な人物ではなく、むしろ毛利、宇喜多ら大老グループが積極的だったため連携に踏み切ったです。

毛利輝元は1年半前に「7武将襲撃事件」でも三成側での軍事行動を考えていた。

西軍は共同謀議で決起したが、豊臣家を守るという三成の思惑と毛利家を拡大したいという輝元の思惑が異なる同床異夢状態が西軍の弱点。

その毛利輝元が、家康との不戦協定へスタンスを変えていくです

(1)上杉征討軍のほとんどがそのまま家康に従ったこと

(2)岐阜城が簡単に開城したこと

(3)大津城・京極氏の離反――

といった西軍の予想外の不利な状況が続いていたからです

さらに「輝元自身、当初から短期間での決着を望んでいなかった」です

政治的混乱が長引き、その間に四国・九州など西国の掌握を輝元が企図していたため。

従来は毛利一族の有力武将であった吉川広家が、独断で黒田長政ら東軍と交渉したとされてきたですが、最新の研究では輝元自身の指示で吉川広家が動いたとされるです

輝元が信頼する側近で、戦後には西軍首脳の1人として処刑される安国寺恵瓊も、そうした自軍の動きを黙認していたです

結局毛利軍の不戦と小早川秀秋の裏切りが関ケ原合戦の東軍勝利を決めたのは周知の通り。

だけど戦後処理は輝元の期待と裏腹に領国を約3分の1に減封されるという結果に終わったです。

家康と三成の政治指向には共通点も少なくないです

家康政治の特徴として「法の支配」を挙げるです

家康は「武家諸法度」「宮中並公家諸法度」など多方面で法の整備を推進。

一方、太閤検地の具体的な推進者だった三成の目指したものも税収の全国共通ルールの徹底。

江戸時代に老中らには譜代大名が就任し、前田・伊達といった大々名に参画させなかった制度の原型を豊臣政権末期の「5大名・5奉行制」にみるです

基本的には権威と権力の分離で、豊臣時代の大老にも具体的な政治的権力はなかったです

また家康の生涯の趣味として「鷹(たか)狩り」が知られているですが、三成にも自分の鷹のすばらしさを喜々として語る書状が残っているです

関ケ原前夜には一時的に徳川家と石田家が友好的な関係にあったことを指摘。

家康が京都・伏見城から大阪城に移る際に安全のため実兄の城内屋敷を提供。

家康も三成の嫡子の大阪城勤務を認めているです

終始反家康の立場を貫き常に挙兵の機会を狙っていた、時勢の読めない人物ではなかったです

家康と三成は最初から仲が悪かったわけでもない。

家康60歳、三成39歳、秀頼6歳。三成には家康と妥協して時間を味方に付ける選択はなかったのかなぁ~

三成が秀吉家臣団中で頭角を現していったのは、ちょうど秀吉が織田家の権力を奪取していく時期だったです

秀吉は本能寺の変後、信長の嫡孫・秀信を立てつつ子息の信孝、信雄を攻めていったです

その経緯を間近で見ていたのが側近の三成。

三成氏は秀吉が三成の外交担当に上杉、佐竹、真田といった「家康包囲網」の諸大名をあて、一貫して家康に対抗する立場に置いていたと指摘。

秀吉が生きている間は対立することはなかったです

三成の心中には家康を潜在的な敵と見なす秀吉の底意が刻み込まれていったのではないかと推定。

「関ケ原」の研究①

日本で一番知られている合戦は、天下分け目の戦いとされた「関ケ原合戦」。

戦後は全国の3分の1を超える約630万石が勝った東軍に分け与えられたでつ。

徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍が関ケ原(岐阜県関ケ原町)で戦い、勝利した家康は約260年続く江戸幕府を開いたでつ。

両軍合わせて約16万人が激突したこの一戦は、天下取りを狙う家康が反対勢力を誘引して引き起こし、ほぼもくろみ通りに一気に決着を付けたとの評価が一般的。

だけど最新の研究では、家康が望んだような展開とはかけ離れた不本意な戦いであったことが指摘。

「関ケ原」における家康の計算と誤算を検証するでつ。

「関ケ原合戦のような大会戦を家康は望んでいなかっただろう」――。

「家康は既に実権を握っており、より安全に政権を奪取する道があったはずだ」と分析。

それまでの権力闘争に圧勝し政略が順調に進んでいたから。

家康は1598年8月から多数派工作を始めたといわれているでつ。

伊達、福島ら地方有力大名との婚姻政策だ。秀吉が生前に決めた「五大老」(家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)と「五奉行」(三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政)による集団指導体制は早い時期から形骸化。

三成ら奉行4人(浅野を除く)と大老の毛利が「起請文(きしょうもん)」を作成して同盟した点を指摘。

「仮想敵」はもちろん、大老筆頭の家康。

 

99年閏(うるう)3月の「石田三成襲撃事件」を家康派らによる「事実上のクーデター」と位置づけ。

三成は加藤清正、福島正則ら7将に狙われただけではないでつ。

拠点としていた大阪城も片桐且元ら「隠れ家康派」に占拠され三成派は入城できなくなっていたでつ。

これまでは家康が公正な第三者として対立を調停したとされてきたでつが、実は清正ら7将は家康の統制下にあったでつ。

家康と三成派の毛利、上杉らとの間で和睦がまとまり、三成は引退を余儀なくされたでつ。

さらに名目上の最高権力者である豊臣秀頼の大阪城に乗り込み、幼君をたてる形で事実上の独裁権を握ったでつ。

家康が「天下様になった」と世間で噂されたでつ

家康派大名が7日間で合計13万石加増されたこともあったでつ

大名への加増は、本来秀頼にしか許されない最高レベルの権限。

「泣くまで待とうホトトギス」の句が表すように、家康には「忍耐」「熟柿(じゅくし)作戦が得意」とのイメージが強い。

しかし当時58歳の家康は素早く動き権力闘争に勝利。

一方で「政敵を1度に1人ずつ失脚させる方法を貫いた」手堅い個別撃破の戦略にも注目。

三成を隠居させてから毛利輝元が支援しているのを承知で「(家康と輝元は)今後は兄弟の間柄」と友好関係を結んだでつ。

前田家と上杉景勝との連携説があった時も、利長に標的を絞り上杉は不問。

その上杉打倒は00年6月まで待って開始。

「会津征伐」で徳川軍に豊臣家諸大名を加えた正規軍で、遠征の準備を担当したのは増田、長束、前田の3奉行。

家康が畿内を離れれば屈服していた反対派が蜂起するだろうという予想は当時幅広く共有されてて。当初は加藤清正だと思われていたでつ。

 

家康も当然、反対派挙兵の可能性は折り込み済み。

しかし「大規模にはならないと楽観していた」とみるでつ。

実際、最初は三成と大谷吉継が蜂起(7月12日)した程度と伝わっていたでつ

第1の誤算は毛利輝元の参戦。

輝元には優柔不断な性格のため周囲にすすめられるまま西軍総大将に担ぎ上げられたとの印象が強い。

だけど「輝元自身が積極的だった」と指摘。

中国地方に帰国していた輝元がただちに畿内に戻った早さから「事前に三成らと相談・準備していた可能性が強い」。

7月17日に大阪城へ入り、四国・中国地方へも出兵。

宇喜多秀家も積極的に参加した。直前に家中の内紛があったことから自分の方針に賛成しそうもない家臣はあらかじめ外しておくという周到さ。

事前の謀議に加わっていた可能性は高い。

「上杉が健在なうちに家康に対抗しないと、次は自分たちがやられる番という認識が西軍首脳には共有されていた」でつ。

「増田長盛ら3奉行が三成側に付いたのが大誤算だった」としているでつ

家康が独裁権を握っていた約1年間、3奉行は家康に忠実に従って全国行政を処理。

三成挙兵直後は、3奉行も淀殿も家康寄りで「不穏な情勢を鎮圧してほしい」との書状を遠征先に送っているでつ

しかし三成らが説得し、毛利参戦なども確認するに至って西軍有利と判断。

3奉行は家康に対する弾劾状を全国に発送、家康は公的権力者としての立場を剥奪され、一転「叛徒(はんと)」の立場になったでつ。

各個撃破どころではない。2大老・4奉行(三成復帰を含む)を同時に敵としたわけ。

家康は8月5日に江戸城へ戻り、嫡子・秀忠の徳川主力軍3万8千を中山道経由で先発させるものの自身は約1カ月滞在し情勢を見守ったでつ

「福島正則ら義務的従軍で付き従ってきた武将がどう出るか分からなかったからだろう」とみるでつ

清洲城(愛知県清須市)まで進んだ福島ら豊臣系武将に積極的に西軍との開戦を促す使者を送ったのは「東軍からたもとを分かつ者をあぶり出す家康一流の作戦」はずだったが、ここから徳川軍団の誤算の連鎖が始まったでつ

挑発的な督戦の言葉に激高した福島、池田輝政ら東軍の武将は、勢いにまかせて堅城で知られる岐阜城を半日で陥落させてしまうでつ

さらに三成ら西軍首脳が集まる大垣城まで、目と鼻の先の距離まで進撃。

督促の効き目があり過ぎ、このままでは家康も秀忠も参加しないうちに東西決戦が決着してしまう恐れが生じてきたわけ。

そうなれば「家康は戦後における立ち位置を失い、政治的発言権はなくなる」。

 

家康にとっては予想を上回る早い展開であったため、慌てて強行軍で東海道を進んだでつ

むろん前線の諸将には不用意に戦端を開かないように自制を促す書状も送ったでつ

9月1日に江戸を出発した徳川軍は約3万3千の大軍。

ただ1万石以上の大名クラスは秀忠軍に加わっていたため家康を守る防衛的な性格が強い旗本中心だったでつ

最前線に到着したのは14日で「家康抜きの関ケ原」という最悪の事態は回避できたでつ

ただ今度は秀忠軍が間に合わなかったでつ

当時の命令伝達速度の問題から、家康が早期決戦に切り替えたことなど知るわけもなく、秀忠は従来方針通り上田城を攻めて苦戦などしていたでつ

結局関ケ原の戦いは、実態が豊臣系大名同士が東西両軍に分かれての戦闘になったでつ

戦後処理で西軍から没収した約630万石のうち、約8割の580万石が東軍の豊臣系武将に配分されたでつ

開戦当初に「徳川四天王」の井伊直政が抜け駆けしたというエピソードは、戦場で存在感が希薄な徳川軍のアピールを狙ったのかもしれないでつ

一方で「関ケ原合戦の布陣については諸説入り乱れた状態で、小早川秀秋が松尾山にいたこと以外ほとんど分かっていないのが現状」との指摘もあるでつ。「古戦場の発掘調査で鉄砲の弾が1つも出てこなかったなどが背景にある」でつ

小早川の裏切りを促すため家康が鉄砲を撃ちかけたとの有名なエピソードも、実は後世の創作ではないかという説が出され、支持する研究者も少なくないでつ。しかし「華々しい一斉射撃ではなく、誤射を装った警告の鉄砲射撃だった」と唱えるでつ

家康は細心の注意を払いながら参戦を促していたという見立て。

誤算続きであったにもかかわらず、最終的に家康が勝利できた要因はどこにあったのか。

1つは家康が中央政局の動きに集中し、政権奪取の目標が終始ぶれなかったことにあるでつ

毛利輝元は四国・中国への侵攻を図り、上杉景勝は江戸の徳川軍ではなく山形地方へ進出したりしていたでつ

輝元は養子への領土割譲、景勝は自領の未整備という内部の問題があり、領土拡大が大きな関心事だったよう。

「毛利も上杉も政権中枢の問題のみに集中できなかったのに対して、家康は権力奪取に集中できたことは大きい」。

政権問題のみに注力していたのは、家康を除けば、あるいは三成だけだったかもしれないでつ

三成は関ケ原の戦備のために蓄えを使い切ったでつ

九州で活躍した黒田如水も含め、みな戦国時代の再来まではいかないとしても、相当な長期戦を予想していたでつ

江戸進発後の家康だけが短期決戦を指向していたでつ

さらに「関東250万石の経営が順調で省みる必要がなかったことが大きい」と指摘する。

領国経営のため帰国する有力大名が相次いだでつ

家康だけが京都・大阪に滞在し続けた。宇喜多秀家は家中を二分する「宇喜多騒動」を引き起こし、島津義久、義弘は重臣の「庄内の乱」の解決に追われていたでつ

関ケ原の10年前になる家康の関東転封は畿内からより遠ざけたい秀吉の計算が働いたともいわれるでつ

家康自身も本拠地の東海・中部地方から離れるのは当初本意ではなかったかもしれないでつ

しかし「家康は関東へ移ったことをプラスに作用させた」でつ

「従来の土地とのつながりがリセットされたことで家臣団の再編成が可能。

井伊直政や本多忠勝、榊原康政が多くの領地を与えられ、全国レベルで頭角を表し始めたのはこのタイミングだった」。

不本意な異動をプラスに変え、結果的に中枢での存在感を大きくしていくことができたでつ。

日本の城

最近ブームと言うか城に関する本とか番組が多いですなぁ~

そういえば最近、城廻してないなぁ~

出張した時に城のある街に行きたいですなぁ~

大坂の陣

謎も多いけど陣配置図が見つかったです。

これでまた新たな発見があるかも。

推定が確定に代わるとまた歴史もおもしろくなるです。

太陽の塔

大阪万博もだけど、高度成長時代のシンボルですなぁ~

世界遺産にしたいです。

ここでいろんな夢を描いた時代だったのかなぁ~

皇位継承

来年行われるでつなぁ~

だけど古い風習も残ってるでつなぁ~

さて年号は何になるのかなぁ~